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旬な高梁-ブログ-

待望の山田方谷記念館オープン!!

  • 2019-2-25
  • 観光情報
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ついに!!

高梁市にも!!

待望の!!念願の!!

山田方谷記念館が!!

オープンしました!!

出身地である高梁市にも記念館を希望する声があった中、ついにオープンした山田方谷記念館。

彼の生涯を紹介する年表や、神童と呼ばれたころの「天下泰平 国土安全」の書、さらには生涯を通じて大切にしてきた言葉「至誠惻怛」の書、恩師から送られた激励の言葉「盡己」の書などが展示されています。

レプリカとのことではありますが、虫食いの跡や字のかすれや汚れ具合なども精巧に再現されており、一見の価値ありでした!

山田方谷記念館の展示についてご紹介したのですが、みなさん山田方谷という人物をご存知でしょうか?

あまり知られていない方谷ですが、近年、経営のプロや政治家などから注目を集めています。

そんな彼の生涯を簡単にご紹介!

↓↓↓

山田方谷は、幕末の備中松山藩(現・高梁市中井町)に生まれ、幼いころから学問に秀で「神童」と呼ばれていました。

その才能は時の城主・板倉勝職(いたくらかつつね)の耳にも届き、江戸や京への遊学を認められ、その才能により磨きをかけて帰藩しました。

帰藩してからは、次代の城主・板倉勝静(いたくらかつきよ)に重用され、10万両もの借金を抱え大赤字であった、備中松山藩の藩政改革の指揮者に任命されました。

上下節約(じょうげせつやく:庶民だけでなく武士にも節約を命じた)では周囲の武士たちからの強い風当たりもありましたが、勝静の「方谷の言葉は、私の言葉と思い聞くように」とのサポートをもらい、徐々に皆の意識改革を行ったそうです。

また、節約だけではだめだとの思いから、新たな特産品の開発なども行いました。その時に開発した「備中ぐわ」は大ヒットし、現代でも使用されています。

そして、7年後には全ての借金を返済し、さらには10万両の蓄財を築きました。

その手腕により、方谷の名は全国に轟き、越後長岡藩の河井継之助などが教えを請いに訪れました。

明治維新後は、新政府の要職にとの声もありましたが、それを辞退し、地元の後進の育成に努め、備中松山藩や新見藩、また備前の閑谷学校などでも教鞭をとり、多くの子弟を育てました。

亡くなる際には、王陽明全集と勝静から賜った脇差を枕元に置いてあったそうです。

 

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