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市街地 山中鹿介の墓

山中鹿介の墓

 「われに七難八苦をあたえ給え」と三日月に祈った尼子十勇士のひとり「山中鹿介(やまなかしかのすけ)」は、天文14年(1545)に月山富田城の麓に生まれました。

 数々の武勲をたてた鹿介は、毛利家に滅ぼされた主家・尼子氏の再興を夢みて兵を挙げ、織田信長の支援で播州上月城を攻略・立てこもりましたが、毛利・宇喜多連合軍に破れ、毛利輝元が在陣する備中松山に護送される途中、高梁川の渡し場「阿井の渡し」で討ち取られました。この時、鹿介34歳でした。

 鹿介の首は、首実検のため将軍・足利義昭の待っていた現・広島県福山市の鞆の浦まで運ばれ、その地に首塚が作られました。胴体は、高梁市落合町阿部の観泉寺に胴墓として葬られています。

 鹿介が最期を迎えた場所には榎が植えられ印とされていましたが洪水で流出したため、供養塔として正徳3年(1713)に当時の備中松山藩主・石川氏の家臣により、この墓が建立されました。
 

 

 

 

 

住所 岡山県高梁市落合町阿部(ローソンのすぐ近く)
参考文献 高梁市史